「2003年ベトナムの旅」 「Động Phong Nhaを見に行く」
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見慣れた関空の搭乗口 |
1月1日朝7時半、いつものように関空に着いた。飛行機が飛ぶまでにまだ三時間もある。でもそれもいつものことだ。シャトルで待合室に行き、いつものごとくごろりとソファーに横になる。そういえば2000年の時「2K問題」でジャンボに18人しか乗客が乗っていなかったことを思い出す。その18人は出入り口の所にひとかたまりに座っていたなぁ。スチュワーデスのお姉さんとたくさん話もした。ベトナムへは初めてとの事で、せめて数字くらいと、123を教えた。帰りにジャンボが写っているポストカードを持ってきた。そしてきれいな字でお礼の言葉が添えられていた。
同日15:00タン・ソン・ニャット空港に15分早めに着いた。真冬の日本から常夏のサイゴンは嬉しい。セオムでいつものホテルへ。夕方は一年ぶりの友人とバィン・セオを食べた。
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彼らは従兄妹同士・バイン・セオ屋で・Thaoさんは私に包んでくれている |
1月2日12時、フエ空港へ着陸。ここでも市内までのチケットを空港内で売っていたが買わずに出ると、タクシーの運転手が50,000ドンと吹っかけてきたの、チケット売り場へ行こうとすると「25,000ドンOK」と言った。タクシーに乗るとベトナム人の客が乗っていて相乗りだった。約20分でKhách sạn Ngô
Qhuyền一泊20ドルのホテルへ入った。
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Khách sạn Ngô Qhuyềnの室内の様子 |
今回は頼まれた荷物がやたら多い。まずそのうちのひとつ「住宅の模型」これは軽いが大きい。施主の公安のおじさんに電話して来てもらった。留学生Nghia君が設計したもので、今年二月着工で六月には完成するという。あとで彼Nhgiaが設計した両親の家が出てくるので見て欲しい。
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ホテルの兄ちゃんが機内預けで壊れた模型を直してくれている |
この設計のいいところをたどたどしいベトナム語で説明をした。二十歳くらいの娘も一緒に来ていたので、貴女の部屋はどこですか?って聞いたら多分三階だと言っていた。家の中央が吹き抜けになっていて、屋根の窓から空気が流れ出て、夏も涼しい設計になっている。ベトナムではほとんどの家は、吹き抜けになっていなし、傾斜のある屋根も珍しい。説明が終わるとそそくさと帰ってしまった。なんと愛想のない、、、。Nghia君の話では彼の家に泊めてもらえばいいと言っていたがで、とてもそんな雰囲気の人ではなかった。もうひとつの荷物は友人の留学生Dieu
Anhさんがお父さんにプレゼントする「防寒コート」。日本で預かったときは馬鹿でかい箱に入っていたが、こっそりと折りたたんで小さくして持っていった。内緒です。(笑)
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Thanh Bìnhさん、Hòaさん、留学生Diêu
Anhさんのお母さん |
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フエの橋 |
Thanh Bìnhさんとその友人のHòaさんが現れた。Hòaさんはフエ大学の先生、Thanh
BìnhさんはOL。27歳くらいの大人の女性を感じさせられる美人だ。早速晩御飯を三人で食べに行った。私はBìnhさんの後ろで細い腰にギュッとつかまりながら、しばし至福のひと時を過ごした。着いたのはオープンカフェでおいしいフエ料理をいただいた。ビールで乾杯をしたが、それ以上彼女たちは飲まなかった。その後イルミネーションがキレイな橋を見に行って、明日も会う約束をしてホテルへと帰った。
まだ10時だったので、隣のマッサで時間を過ごした。ホテルの兄ちゃんがバイクで客の送り迎えのバイトをしていた。マッサは今一だった。翌日は雨、11時に彼女たちが来て友人への土産を私に渡して帰ってしまった。でもDonh
Hoi行きの電車の切符を買ってくれたのが嬉しかった。電車は2時、時間があったのでセオムで仏教寺院へ見学に行った。
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↑ティェン・ムー寺「Chùa Thiêen Mụ」でお茶をいただいて休憩していると、私の向かいのおじいさんにやたら丁寧にみんなが挨拶するので話しかけてみた。お爺さんはこの寺の一番えらい人で、いろいろ話をさせてもらった。英語が堪能だったがベトナム語でと言うと分かりやすく説明してくれた修行僧が70名いるとの事。
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フエで有名な「ブンボーフエ」の店 |
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フエ駅の売店 ドンホイまでの切符 約3時間49000ドン |
電車は20分遅れて到着、Đồng
HớiではNghĩa君の姉の旦那Chinhさんが出迎えてくれた。とりあえずホテルへ。晩御飯は留学生Nghia君の父母の家へ。
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Nghia設計の両親の家 |
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記念撮影 |
翌日は今回の目玉の「Động
Phong Nha」へ。女の子二人が同行した。ベトナムの女性は車に弱く五分も走らないうちにゲロをはいてしまった。町から一時間で洞窟の船乗り場に、そこから父娘船頭の舟で30分、1月なので風は少しだけ寒く、私は彼女たちの風除けになるために移動した。洞窟の入り口に着いた。洞窟は二つ、山の中腹まで上りそこから入る鍾乳洞と、舟でそのまま奥まで入るコースがある。先に山の中腹へ行く。急な階段を30分かけて登るのだが、途中休憩所が二三箇所あり、そこで飲み物と絵葉書を売っている。最後の休憩所があって、そこで一息ついた。
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この奥が鍾乳洞の入り口・母娘で店をしている |
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同行した娘二人 |
鍾乳洞の中に入ると、外からは想像できない別世界がそこにあった。私は山口県の秋芳洞へは行ったことが無いので比較はできないが、すごい景色だ。現在世界遺産に申請中だと聞いているが、うなづける。機会があれば是非観光に行ってください。
Động Phong Nha ←詳しくはココをクリック
昼二時過ぎにĐồng Hớiに帰り、Chinhさんの娘と近所を散歩した。名前は「Khánh Chị」10才。家の近くが海になっていて、あれが舟、あれが網、あれが対岸の町、これが私の小学校、これが今度行く中学校と事細かに紹介してくれた。茶店があったので私はca-phê
đên、カン・チはジュースを飲む。その間もカン・チはベトナム語の発音のレッスンをしてくれる。小さな口を大きく開いてとっても丁寧だ。その純真な眼を見ているとまるで天使のようだ。壁にセミヌードのポスターが貼られていた。私は少し意地悪な質問をした。「ねぇ、裸って恥ずかしくない?」「、、、」「日本にはね、週刊誌に裸の写真がいっぱいあるんだっよ」「えぇ!」カンチは目を丸くして驚いた。これで日本のイメージは悪くなったかな。少し心配。(^^ゞ
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とっても可愛いカン・チ(Khánh Chị) |
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Nghia君のお姉さんが経営している「Nha
May」裁縫店・同行した娘二人はココの従業員 |
ここĐồng
Hớiは新興住宅街で新しくてきれいな家が多い。家への戻り道カン・チは私に聞いた。「ねぇ、日本の家とベトナムの家とどっちがキレイ?」「、、、」すぐに返答ができなかった。「日本の家はね、木と紙で作られているし、ベトナムの家はレンガで出来ているから比べようが無いよ」とやっと答えることが出来た。カン・チの父親がバイクで私を探しに来て、私の至福の時間はさえぎられた。晩御飯はNghia君の両親の家で再びご馳走になった。今回は父親が腕を振るって料理をしてくれたそうだ。私が持参した日本酒をおいしいと言って飲んでくれた。
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Nghia君の両親の家での晩餐 |
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ドン・ホイからハノイ迄 約10時間253000ドン |
その夜の電車でハノイへ向かった。寝台車は初の体験だ。私の席は一番下なのだが親子連れの娘のほうが陣取って寝ていた。どこうとする娘を制して最上段のベッドへ転がり込んだ。六人部屋はその父娘と母娘と夫婦かどうかわからない男と女。母娘のほうは二人でひとつのベッドで寝ている。荷物を片付け終わって下の席に下りて談笑が始まった。またまたベトナム語レッスンだ。娘が風邪を引いているらしく「nhuc dau?」(頭が痛い)と聞いたらそうと答えた。大学の教授をしている父親が言った。「nhức đau」「đầu đau」は「nhức đau」の方が意味が強いとのこと。物売りが大きな声で近づいてきた。「cháo!」。私は「cháu」と聞こえたので、どうして「cháu」(小さい子供)って言ってるのと聞いたら、「あれはchaoと言ってるんだよ」。「ふうぅん、違いがわからないなぁ」。「au」は短く「アウ」、「ao」は少し長く「ア〜オ」。おばさんの説明によると、外国人が区別しやすいようにと、短く言うのと長く伸ばすのが考えられたらしい。ホントかな?皆はHCMCから乗ってきているのでかなり長くこの電車になっていることになる。それから比べればハノイまでの10時間ぐらい近いもんだ。ガタゴトとゆれる電車に身を任せて眠りについた。
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同じ部屋だった娘二人 |
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朝五時のハノイ駅 |
ハノイの朝五時はまだ暗い、しかし大勢の人が電車の降り場まで友人や家族を迎えに来ている。席の番号を前もって言ってあったので友人Hoàngは電車を降りるとすぐそこに居た。まだ人気の無い小雨交じりの道路を私を乗せてHoàngの家に向かった。朝食はハノイフォー。サイゴンのフォーと比べてあっさりして、香草も少ない。ハノイは二度目なので、まだ見ていない市内にある観光地を散策した。小雨混じりのハノイは縛の後ろは特に寒い。やむなくうすでのカッパを買って対処した。
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女性歴史博物館・受付に居た女の子と |
最後の預かり荷物を渡すために留学生Phúcさんの姉夫婦に電話した。その夜姉夫婦が蛇料理レストランに私を招待した。ハノイ市内から紅河を渡って車で一時間、此処にしかないという蛇料理を食べた。
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蛇肉料理 よく見ると鱗が見える |
夜9:30にホテルに着いたが、あまり寒いので昨夜行った近くのサウナへ行ったが、もう終わっていた。そこで思い出したのが、今日の昼過ぎに、一度は行ってみたかった「日航ホテル」へお茶しに行ったのだった、帰りにラウンジのカウンター内のアオザイのお姉さんに「夜お酒のみに来てね」と言われていた。「え、夜もいるのって」聞いたら「えぇ」と答えた。1人だったがタクシーに乗った。昼と同じ女性が二人、私をみて笑顔で迎えてくれた。すぐに英語で話そうとするので「Nói
tiếng Việt」と言うと、早速ベトナム語で話しかけてきた。彼女らは外国人のお客には必ず英語を使うので、昼私とベトナム語で話したにもかかわらず英語で話しかけてきたのだった。ベトナム語を使う日本人は珍しいのと興味とで、彼女らはコップをふきながら、他の客のお酒を作りながらも、何かと私にベトナム語で話しかける。当然ベトナム語の新しい言い回しを発見をしたときは喜びも多い。その才女たちの会話も深夜になって終わった。一流ホテルなので飲み物は高かったがそれだけの価値はあった。翌早朝友人二人に加わり、ダンバウの奏者Anh
Tuさんがやって来た。彼は日本公演を何回もしている。日本で何回か話をして、ハノイで会おうということになっていた。
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ハノイ市内にある郷土料理バイキングでビルの最上階にある
50000ドンのチケットを入り口で買って、買うたびに挟みが入れられる
最後のハノイフォーを食べてノイ・バイ空港に向かった。空港には友人Hoàngの奥さんが働いていて、二人で見送ってくれた。ノイ・バイ空港は関空に見劣りすることなくとてもきれいになっていた。空路HCMCへ。タンソンニャットでは、今回はじめて会う青年Hao君が大きな紙に私の名前を書いて待っていた。何しろ初めて会うので顔は知らない。そのバイクの後ろに乗ってホテルへ。その日の夕方、日本語教師の友人Duyênさんの家で生徒と日本語の勉強会。昨年もいた生徒、始めて二三ヶ月の生徒といろいろいたが、日本人と直接話をする機会が無い彼らに、「あいうえお」の日本人の発音を教えた。その後Duyênさんの両親と共に晩御飯をいただいた。珍しくカレー料理だった。
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日本語を学ぶ生徒たち |
Duyênさんの両親と晩御飯 |
兄妹で日本語を勉強 |
次の日の昼、昨年お世話になった私の日本でのベトナム語の先生のお父さんに会いに行って、再開を喜び合った。依然この家に住んでいた先生の妹が結婚して郊外に移り住んだため、今は先生と父親がここに住んでいるとの事でした。先生は夜日本語を教えているとの事で、夜そこへ押しかけて行った。親戚の子供たちとその母親を相手に教えていたが、生徒たちはまだ一回と二回目の授業だった。しかし日本語をアルファベット表記しているとは言え、「アナタノゴカゾクハナンニンデスカ」の発音は私にははっきりとわかるではないか。ベトナム語を一、二回勉強しても、絶対にわからないなぁと感心して聞いていた。「Hanhさんは私のベトナム語の先生で、日本で四年間習いました。でも私はあまり利口でないので、これだけしか話せません。」と説明した。その後先生とHao君とで食事に行った。
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ベトナム最後の晩餐・一番左がHao君 |
ベトナム出国のイミグレでパスポートを返してもらったときに「Cảm
ơn」と言うと、係官の人に「ん、ベトナム語出来るの」って言われたので、「ít」と答えた自分が嬉しかった。
今回のベトナムへの旅行は九日間、いつもより長期だったのだが、予定をいっぱい入れすぎてゆっくりとは出来なかったが、大勢のベトナム人と新たに知り合えてとても有意義だったと思う。さて次回渡越は何をしようか、どこへ行こうか、今から作戦を練ることにしよう、、、。